中古BMWに乗ろう! - 中古BMWの車選びからメンテナンス、安く維持するコツなどをご紹介

BMWの中古車選びのポイントから維持のコツ、安く維持するコツ、メンテナンスまでノウハウをご紹介。

BMWの中古車選びのポイントから維持のコツ、安く維持するコツ、メンテナンスまでノウハウをご紹介。


Wikipediaにも公式サイトにもないBMWの歴史と起源

BMWの歴史はWikipediaや公式サイト、その他ファンサイトでも確認することができます。特に第二次世界大戦後のBMWの情報はインターネットでおおよそまとめられて見つけることができるでしょう。

この記事では第二次世界大戦前のBMW、そしてBMWの前身・一部となる会社の歴史もあわせてまとめています。

アイゼナハ社(後のディキシー社)

  アイゼナハ社・ディキシー社
1896年 実業家のハインリヒ・エーアハルトがドイツ・チューリンゲン州アイゼナハにアイゼナハ社を設立
  アイゼナハ社は600人以上の従業員を擁する自動車メーカーで、軍用車両を中心として、その他にも軍用・民生用の二輪車と電気自動車、そしてエンジン単体の生産を行っていた。なお、ここでいう電気自動車とは現代のそれとは全く異なり、バッテリーとモーターが付いた馬車で、バッテリーが切れるとそのまま馬に牽かせられる構造になっていた。
1898年 フランス・ドコーヴィル社の小型自動車を「ヴァルトブルク」の名前でライセンス生産を開始。ドイツ国内で好評を得る。
1899年 改良を加えた「ヴァルトブルク」がレースに出場し、時速59kmの記録を打ち立てる。
1902年 「ヴァルトブルク」が同様に時速120kmの記録を打ち立てる。
1903年 ハインリヒ・エーアハルトがアイゼナハ社を離れる。後任は技術者のウィリー・セック。
  アイゼナハ社を離れたハインリヒ・エーアハルトはその後、特注で車を手作りする事業を開始する。1909年には「R8」と呼ばれる4気筒(14馬力)の小型自動車を生産し、これが好評を博してレースから郵便配達などの商用車に至るまで様々な用途で活躍し人気を博すことになる。
  一方のアイゼナハ社を引きついたウィリー・セックは、「ヴァルトブルク」の名称を「ディキシー」に改め、事業を軍用・民生用いずれにも対応しやすい「ディキシー」の生産に絞ることを決定する。
1904年 モーターショーに3種類の「ディキシー」を出展
  単気筒エンジンの「T7」、2気筒エンジン(8馬力)の「S6」、4気筒エンジン(16馬力)の「S12/14」
1914年 第一次世界大戦開戦
  開戦と共に工場は軍需品生産に利用され、敗戦後は解体された。
1919年 休戦協定
  アイゼナハ社は社名も「ディキシー」に改め、「ディキシー」の生産を再開
1921年 ディキシー社は新型車「G1」を発表。
  「G1」は高価格大型の4気筒車で、6馬力~18馬力のラインナップがあった。特に高馬力モデルはレースで活躍し、人気を博すことになる。
「G1」を発表した同年、戦後の不景気のあおりを受けたディキシー社の経営も苦しく、ゴータ社に買収される。
  なお、大型高価格の「G1」は不景気にあっても一定数いる富裕層をターゲットに高価格路線を継続した。
1927年 苦しい経営から抜け出せないディキシー社はゴータ社の手を離れ、実業家のヤーコプ・シャピロに引き継がれる。
  ヤーコプ・シャピロのもと、新たに低価格な6気筒大型車を生産するも不評。すぐに大型車路線を諦め、小型車路線に進もうとするも自社開発する体力は残っておらず、既に一定の人気を博していたイギリスのオースチン社からオースチン・セブンをライセンス生産する契約を取り付ける。オースチン・セブンは二輪車に車の外装を被せただけのような非常に簡素な車で、価格も二輪車と大きく変わらない低価格で販売されていた。
1928年 ディキシー社以外にも負債を抱えていたヤーコプ・シャピロはディキシー社をバイエルン発動機製作所に1000万ライヒスマルクで売却

▼オースチン・セブン(様々なタイプがある)

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ミュンヘン航空機会社

1910年 「オットー・エンジン」の発明者ニコラウス・アウグスト・オットーを父に持つグスタフ・オットーがガブリエル・レッチと共同でエンジンを開発し、それを搭載する複葉機を作り上げる。
1912年 グスタフ・オットーがミュンヘン航空機会社を設立、30機の飛行機を販売。
1913年 バイエルン軍に47機の飛行機を販売。なお、エンジンは問題も抱えており、一部の飛行機にはダイムラー社のエンジンを搭載していた。
1914年 第一次世界大戦開戦
1915年 政策も影響しミュンヘン航空機会社の売り上げは落ち、グスタフ・オットーが心を病んで入院
1916年 ミュンヘン航空機会社の負債と自身の入院費を賄うために、グスタフ・オットーはミュンヘン航空機会社をバイエルン航空機製作所(BMW GmbH)に売却

▼N・A・オットー

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カールラップ発動機会社(後にBMW GmbH、BMW AG)

  カール・ラップ発動機会社・BMW GmbH
1913年 ダイムラー社に在籍していたカール・ラップが個人で航空機用エンジンを開発。カール・ラップ発動機会社を設立。
  このエンジンは非常に優秀であり、他社製エンジンを速度・高度の両面で凌駕していた。そのためすぐに軍との契約を勝ち取ることができた。
1914年 第一次世界大戦開戦
  開戦と同時にプロイセン、オーストリア・ハンガリー帝国と契約。なお、この時航空機用4気筒エンジンに関してはグスタフ・オットーのミュンヘン航空機会社より購入していた。
1916年 カール・ラップ発動機会社の事業の大部分を取り仕切っていたフランツ・ヨーゼフ・ポップがカール・ラップ発動機会社の組織を再編し、名称をバイエルン航空機製作所(BMW GmbH)とする。(GmbH≒有限会社)
  航空機用エンジンの売上が好調で、1916年時点で従業員数は400人近くまで増加し、100台以上の工作機械を保有していた。オーストリア・ハンガリー帝国はカール・ラップ発動機会社に対して1000万ライヒスマルク相当のエンジンを発注しており、これを監督するためにフランツ・ヨーゼフ・ポップが派遣されていた。フランツ・ヨーゼフ・ポップは軍との契約など、カール・ラップ発動機会社にとって重要な事業の大部分を取り仕切っていた。
1917年 当時チーフエンジニアであったマックス・フリッツが航空機用6気筒水冷エンジン(タイプⅢa)を開発する。優秀なエンジンであったためにドイツ政府との契約に成功する。
  カール・ラップがBMW GmbHを去る
  この時、BMW GmbHは戦争需要に対応するために事業を拡張しすぎており、それに気が付いたフランツ・ヨーゼフ・ポップがウィーン銀行の頭取のカミロ・カスティリオーニの協力をあおぎ、組織の再編を行った。事実上、カール・ラップは組織を追い出された形となる。
1918年 フランツ・ヨーゼフ・ポップとカミロ・カスティリオーニによりBMW GmbHはBMW AGへ改組(AG≒株式会社)
  マックス・フリッツはタイプⅤエンジンを開発(250馬力、後に320馬力)ダイムラー1強であった時代に、ダイムラー製エンジン以上の性能を実現した。
  エンジン生産のライセンス供与を開始
  1918年時点で従業員数は3500人を上回り経営は非常に好調だった。
1919年 休戦協定により軍用航空機およびそのエンジンの生産が停止される
  主力の軍用航空機エンジンが生産できなくなり、代わりに航空機エンジンを改造して船外機やトラック、農機具などの産業用エンジンを生産してなんとか経営を続けていた。また、運良く契約を得た鉄道用ブレーキの生産や家具や作業台の生産も行っていた。当時の経営陣はブレーキ生産を主力事業とすることを検討していた。
1921年 マックス・フリッツが二輪車用エンジンを開発
  このエンジンは2気筒の水平対向エンジンで、後に20世紀を代表するエンジンに選出されるほどの好評を博した。後に自社の二輪車にも搭載されるほか、ビクトリア社、シュトックドルフ社、バイソン社などが購入し、各社の二輪車に搭載していた。
1922年 引き続き二輪車用の2気筒水平対向エンジンが好調で、二輪車以外の様々な用途にも利用され始める。これによりBMW AGの経営は潤い、BMWの自社製二輪車開発が決定した。
1923年 BMW AGは初となる自社製の二輪車「R32」をパリ・モーターショーで発表する
  「R32」は洗練されたスタイリングで市場を席巻した。パイプフレームに2気筒水平対向500cc(8.5馬力)エンジンが搭載され、シリンダーがフレームを横断するような形になっていた。また、この二輪車は初のシャフトドライブの二輪車であり、その後BMWはこの方式を採用し続けている。また、「R32」の車体重量は僅か120kgと軽量で、最高時速は約100kmと当時の水準でも特別速いわけではなかったが、次々とレースで活躍することとなる。
  航空機およびそのエンジンの生産停止が解除される。これにあわせてBMWも生産を再開し経営が安定し始める。
  なお、この時点でカミロ・カスティリオーニはBMWブランドを自動車製造に広げたいと考えており、フェルディナント・ポルシェのデザイン(「フォルクスアウト」と呼ばれており、後に製造され「ビートル」となる)を製品化したりヴニボルト・カムの設計による車の製造も計画していた。しかし、未だ経営が不安定であることには変わりなく、この時点では自動車製造に手を広げることはなかった。
1925年 二輪車のラインナップが9車種まで拡大。様々なレースで100勝以上を挙げる。
  売上高は1500万ライヒスマルク
1928年 ディキシー社を買収
  二輪車の様々なレースでの優勝回数が500回を超える。
  売上は2700万ライヒスマルク
  取締役会のうち、エンジニアたちは自動車製造を熱望しており、それ以外はわざわざリスクを冒す必要がないと意見がわかれていた。このロマンと財政のバランスを取った折衷案として、オースチン・セブンをライセンス生産しているディキシー社の買収だった。
  オースチン・セブンを「3/15」と改称して販売開始
  3/15とは3速15馬力を意味していた。2シーターモデルが2200ライヒスマルク、コンバーチブルサルーンが2625ライヒスマルク。
  「3/15」はサイドカー付きの大型バイクと変わらない価格であったために多くの人に支持され、後の31年間の間に25000台を売り上げた。
1933年 「3/15」に代わって「3/20」の販売開始
  「3/20」で初めてプロペラを模したBMWのロゴがフロントグリルに取り付けられた。「3/15」はオースチン・セブンをベースにしていたが「3/20」はマックス・フリッツおよびBMWによる初のオリジナルモデルとなる。
  「303」の販売開始
  「303」で初めてキドニーグリルが採用された。6気筒エンジンを搭載し、後部座席の乗降を楽にするためにフロントシートが折りたためるようになっていた。
  余談:フェルディナント・ポルシェの「フォルクスアウト」(後の「ビートル」)は、高速道路網と国民の自動車所有台数を重視したアドルフ・ヒトラーによってこのころから支援を受けて後に製品化を果たす。また、このころにはアウトバーンの建設がかなり進んでいた。BMWはナチズムを支持しておらずアドルフ・ヒトラーの目指す「民衆の車」に興味もなく関係も薄かった。しかし、操業を続けるためには良い関係を続ける必要があった。BMWの航空機用エンジン「マークⅣ」および「132」はドイツ第三帝国空軍の主力であり、年間数千台のBMW製二輪車がドイツ軍に納入されていた。
1934年 「303」のシャシーを使用した二人乗りスポーツカー「315/1」を販売開始
  国内外で売上が820万ドルを超え、従業員数は13000人を超えた。
1935年 「326サルーン」を販売開始
  サルーンにおいては独走していたメルセデス・ベンツに対抗した初めてのモデルとなる。1980年台に登場した7シリーズの前身。地味なスタイリングと重すぎるハンドリングに批判があったものの、第二次世界大戦前のBMWの歴史上で最も多くの売り上げを記録したモデルとなる。この「326サルーン」をもとに軍用ジープも生産された。
  この時、BMWとメルセデス・ベンツは合併を検討していたが、戦争が目前に迫り、ナチスからの監視感が双方に送られたため、合併の話はなくなった。
  フランツ・ヨーゼフ・ポップの「質を犠牲にして量を取るような決断はしない」という考えが今のBMWを形作っている。
1936年 「328」が販売開始
  「328」は「326」に搭載された6気筒エンジンを搭載したスポーツカーで、戦前のBMWの最高傑作とも名高い。この時すでにニュルブルクリンクサーキットで平均時速107kmをマークしている。後の「Z3」や「Z4」にも強く影響を与えている。
1937年 二輪車「R35」が販売開始
  最高時速100kmを超えるクロスカントリースポーツバイクで、後の3年間でドイツ帝国に1万5000台を納入している。「R35」に改良を加えた「R75」は軍用バイクとして極寒のロシアやアフリカの砂漠での使用まで想定されて設計され、1945年まで生産が続いた。「R75」はサイドカーなしでの運転は想定されておらず、3人の兵士と1基のマシンガンを搬送できるパワーを持ち、タイヤはドイツ版のジープである「キューベルワーゲン」と共通化された。
  兵器、西欧での二輪車販売、全世界向けの航空機エンジンの販売により1億4300万ライヒスマルクの売上を達成。負債は僅か24万ライヒスマルクだった。
  二輪車の販売が通算10万台
1939年 自動車生産停止
  当時、メルセデス・ベンツが自動車メーカーとしてははるかに各上だった。BMWも追いつく動きを見せていたが、当時のドイツひいてはアドルフ・ヒトラーが必要としていたのは急成長する2番手ではなかった。自動車生産は停止させられ、航空機用エンジンの生産に専念させられることになる。
1941年 世界初の航空機用ジェットエンジン「109-003」の開発が始まる。このエンジンは終戦まで開発が終わることはなく、実戦投入されることはなかった。終戦後に連合軍がカリウム鉱山に隠されていた開発中のエンジンを発見した。連合軍にとっては初めて目にする未知のエンジンであった。
  売上は3億8500万ライヒスマルク
1942年 BMWが軍指定の水冷式航空エンジンではなく空冷式エンジンの生産を続けたことを理由に、フランツ・ヨーゼフ・ポップは社長の座を追われる。後任はクルト・ドナート。この時の実態としては戦争にアメリカが参戦したことを知ったフランツ・ヨーゼフ・ポップが敗戦を察し、既存の組立ラインを航空機エンジン用に作り替えることを拒否したためと言われている。
1945年 終戦
  ミュンヘン工場は爆撃で破壊され、アイゼナハ工場はソ連の占領下におかれた。ミルベルツホーフェン工場はアメリカの占領下におかれ鍋などの復興物資の製造に従事させられた。
  アイゼナハ工場はソ連の占領下におかれ、自動車と二輪車の製造を再開した。当初は青白黒のBMWロゴをそのまま使用していたが、後にバイエルン・ブルーをソビエト・レッドに置き換え、文字も「BMW」から「EMW」に変更された。
1948年 管財人の管理下に置かれ、会社はハンス・カール・フォン・マンゴルト・ライボルトに引き継がれた。
1951年 自動車事業に復帰

▼戦後のEMW

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